時事折々トップへ

        
あれこれ・あるがままに(第83回)    平成27年3月25日

  
 「オジいサン」スルーする

 ジジは最早というか!この4月で72歳になる老人である。ここへ来て「70代」とか「老人」という表現を目にすると、その意味が若い頃と違う感慨で目に止まる。ということで、2月25日の朝日新聞2面下段広告欄に出ていた「中央公論社2月の新刊・話題書」の広告が目に付いた。

 本のタイトル  オジいサン 
 サブタイトル  あるがままに 
           力まず嘆かずいざ余生 
           寄る年波をきっちり受け止めて粛々と暮らす、
           益子徳一(72)の1週間
 中公文庫 京極夏彦

 朝、その広告を目にした早朝5時頃早速Amazonからネット注文した。なにか72歳の希望を感じられるような内容だと思ったのである。その日の夕食時に本が届いた。梱包を開封した途端に老人の早とちりに気付かされ、そして20頁ほども読み進んだとき今度は癇に障り始めた。この辺りで投了、以後の読み進みをスルーする。

 先ず早とちりとは、その本が「2015年2月の初版本である」と誤解したことである。ジジは「2月の新刊」という案内だけに目が行き、勝手に「2月の初版本」と早とちりをしたのであるが、広告の表示と値段(税別760円)に少し注意をすれば、文庫本版としての「新刊」であることに容易に気付いた筈なのにである(これが退化であろう)。
 
 次にジジの癇に障り始めたとこと。小説だから72歳をどのように取りあげても作者の自由である。しかし、20頁ほども読み進んだとき、この作品にはジジと同じく今現実にさまざまな人生を過ごしている72歳の続者全般に対する敬いと労りの気持がないように感じられ、途端に老人性短気・短絡思考で癇に障り始めた。この小説が「私は・・」という一人称の表現形態であったら、ジジもいろいろな「72歳」があるということで余裕を持てたのであるが、作品には前書きも後書きもなく、行間からも作者のこのあたりの認識と価値観が読み込めない。
 ただひたすらに72歳の主人公の退化した行動形態をだらだらと述べるのであるが、ジジは作品の向こうから作者が嘲笑しているような顔が見えてしまい、老人のひがみ根性も手伝いイヤーな気持にさせられたのである。

 作者は1963年生まれであるというから、1943年生まれのジジとは丁度20歳の年齢差である。この著作は2011年初版であるから作者の48歳頃の作品であると考えられるが、作者は自分が経験していない「72歳」を扱うことについて、一体どのような取材と準備をしたのであろうか。

 ジジは父の満48歳のときに生まれた子であるが、子であるジジが父の享年の69を既に過ぎ今72歳にさしかかった。ジジは60代に入ってから幼少の孫を見るにつけ60代であった頃の父の心情に思いが行ったものである。それは、親たるもの子の行く末を案ずること誰しもであるが、父は60代に入っても孫ならず子がなお幼少であったことから己が余命を思い、どうにもできない不憫の心情に駆られたであろう、そのような父の心情が偲ばれたのである。
 年をとるほど過ぎ去った過去ばかりになり、将来は限りなく展望が小さくなる。
そのせいであろう、年寄りはぐじぐじと繰り言を垂れ悲哀に心がいってしまう。本コラムもその延長線上の繰り言なのだ。

 ジジは20頁辺りでスルーしてしまったので、この小説に対する書評はネット・ブログ(早トチリ感想文BOOKS:2015年2月)を引用し、別紙として添付する。

 閑話休題
 ジジの身は年相応に経過しているが、4人の孫は4月から高1(男)、小4(女)、小4(男)、小1(女)になり、それぞれの人生を歩みつつある。
 輪廻転生!孫らの成長を糧に「おじいさん」をスルーして元気に!