時事折々トップへ

        
あれこれ・あるがままに(第39回)    平成23年8月15日

  
盂 蘭 盆 行 事 

 8月15日、終戦記念日、猛暑が続いているが、今朝、猛暑の終わりを告げるかのように、今年初めて”ツクツクボウシ”の鳴き声が聞こえた。


 お盆は元々旧暦の7月15日を中心とした行事だったが、現在、関西では新暦8月の行事として定着している。盂蘭盆の行事は、お盆の入りが13日でこの日早朝に精霊(仏様)をお迎えし、夕方には迎え火、14日は精霊(仏様)のお接待と「いんぎゃはん」のお参り、15日はお供え物の類を川に流す精霊流し、16日は送り火。【僧伽(そうぎゃ)とは僧の集団を意味するという。「いんぎゃ」はんとは、ジジの解釈では「印を結ぶ人」というような意味でお坊さんを敬う呼称であろう。】


 お盆とは盂蘭盆のこと
 盂蘭盆経という仏教の経典書に由来。釈迦の弟子の目蓮が地獄に堕ちた母親を救い出すために衆僧に食事を振る舞い、供養したという孝行説話が盂蘭盆の起源であり、その供養した日が7月15日だったいう。


 送り火・迎え火
 ジジの子供の頃は、暮れなずむ頃、長さ2間ほどの竹竿の先端に肥松で作った松明をくくりつけ、灯を付けて燃え上がらせてから、杭などにくくりつけ高くかざす。当時は外に人工照明がない闇夜であり、高いところで赤々と燃え上がる炎を見ながら、父親からお帰りになるご先祖の仏様の足下を照らすのだという話しを聞いた。

 お盆の飾り・お供え

 祭壇は仏間の仏壇とその前に置いた台である。仏壇の中にお迎えしてきた各ご先祖の戒名を書いた経木(3×25p程度の薄っぺらいもの)をお納めし、前に経机の壇を設け、壇上に御供物を並べる。御供物は、西瓜、まくわうりなどの果物の他、ずいき、さつまいもなどそのとき家で採れている野菜、その他お菓子や饅頭など盛りだくさんにお供えする。
 お接待は、お着きの際にまずはお茶を差し上げ、落ち着き団子を供する。落ち着き団子は小麦粉をこねて丸くし、湯がいてつくる。お接待の食事は朝・昼・夕と品をかえ、ご飯、南瓜と刻み昆布の煮物やそうめん、巻き寿司、おはぎ等である。
 そして、お接待には「おちゃと」と言って食事の時以外にもお茶をそれこそ頻繁に差し上げるのであるが、この地域(紀北の葛城山の麓)に嫁いできた若嫁さんはお盆の間は大変であったであろう。
 

 法界様
 祭壇は仏壇周りだけではない。次の間に経机を置き法界様という祭壇を作る。法界様は、無縁仏や餓鬼道に落ちた精霊を回向するための祭壇である。壇上には法界様の経木を立てるのであるが、経木を立てる台は、茄子を半分に輪切りにし切り口を下にして伏せ、上方から割り箸を突き刺し、割り箸の切れ目に経木を挟み込むのである.。経木には「「三界万霊」と書いてあり、餓鬼も含めたあらゆる有縁無縁の精霊を意味する。
. 壇上には量は少なくても仏壇の前と同じ種類の御供物をお供えする。この法界様の壇上には仏壇周りのお供え物に加え、面白い飾り付けをする。それは、胡瓜と茄子のまるのままの四隅に割り箸を半分ほどの長さにして差し込み、牛馬に見立てて飾るのである。法界様の壇上に牛馬が飾られるのは、ジジの独断と想像であるが(明治28年生まれの父からその由来を聞いたようにも思う)、我が家の仏様に同行してきた無縁仏や餓鬼道に落ちた精霊が、同行のお礼または遠慮して牛馬の世話の役割をしたのではないか、仏道の報恩に基づく教えではないか?


 そんじょ
 その年に初盆を迎える家は、「そんじょ」という精霊棚を作って、そこに新仏を迎える。「そんじょ」のことは「第14回あれこれ・あるがままに」(クリック)で話題にしたので、同コーナーをご覧頂きたい。


 おわりに
 以上は約60年ほども前、終戦後間もなくの頃の話題であるが、今、文明はその頃に比べ飛躍的に発展した。しかし、3・11以来この国は未曾有の苦難に晒されている。ジジは、津波被害についてはその甚大さに驚きながら被害地域の一日も早いかつ適切な都市計画に基づく復興を願っている。
 原発問題については、やはり減原発から脱原発に向かう方向が孫子の代を考えると向かうべき方向だと考えている。ここで最近朝日新聞「天声人語」に取り上げられていた原発問題の話題が目に止まったので引用したい。。
 7月31日の一節は、7月の言葉からとして次のように。
 ▼「しょう来、がんになりませんように」。七夕の短冊に福島の小2女児が書いた願いに胸が痛む。金銀砂子(すなご)の星々には、明るい願いこそ似合う。安らぐ日々が早く戻りますよう。
 (ジジ:小学校低学年の児童が将来の健康を心配している気持に、ジジも筆者と同じ思いである。)
 8月6日の一節は、原爆と原発をテーマに。
 ▼広島と長崎での追跡調査は、被爆には「これ以下なら安全」という量はないと教えている。
  (と記述したうえで、二者の言葉を引用)
  国会で説明した児玉龍彦・東大教授によれば、福島からは広島原爆20個分(ウラン換算)の放射性物質が飛散した。残存量もはるかに多く、影響の広さ、長さは知れない。
  「原発は悪いものだと言っていません、怖いものだと言っているのです。」田口二千陸(たぐちふじろく)。
  (そして、筆者の感想)
  今、私たちが肌で感じる恐怖や不快を思えば、平和利用の恵みも色あせる。脱原発の試み は科学の敗北というより、被爆国の理性と考えたい。
 (ジジ:自然界では、燃焼という反応は水を掛けるか燃料の供給をとめれば反応を止められが、核分裂反応はそうはいかない。ひとたび核分裂反応がおきるとがおきるとそれを直接消す方法はない。いわゆる制御するのであるが、これが並大抵でないのは今回の福島原発事故から明らかである。核は「神の領域」であるというのがジジの価値観。)