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あれこれ・あるがままに(第145回)    令和2年5月25日
                          
  
「老い」と「老人力」

 『目には青葉山郭公(ほととぎす)初松魚(がつお)』

 いい季節である。この俳句は江戸中期の俳人山口素堂の作、発句は字余り。この「は」の字余りについて、あるいは、「目には」と言うことによって他にも「耳には(郭公)」「口には(鰹)」があることが示されているとか、また口調から言ってもゆったりとした感じになり青葉の情景がはっきりと目に浮かぶ、など肯定的な解説が多い。
 尤ものような気もするが、ジジは、「目に青葉」の方がすっきりストンとして気持ちがいい。
 
「老いてこそ生き甲斐」
 喜寿という高齢ともなると季節の話題があると気が向き、また「老い」とか「老人」という話題にも気が向くものである。先日も書籍広告欄で「老いてこそ生き甲斐」(石原慎太郎著、幻冬舎)という本が目についたので取り寄せた。
 石原氏は1932年生まれ、著作は2020年3月の同氏87歳の近著。

 帯の案内は次の通り。 
 『老いるということは経験の蓄積です。それはなまじな貯金なんぞよりも貴いともいえる。貯金は他人に簡単に分ける気にはなれないが、人生での経験は無差別無尽に他の人々に分かち役立てることが出来ます。そしてその献身は喜ばれるし、自分自身にとって生き甲斐にもなります。』

 そして、内容のエッセンスと思われる文章の抜き書きは次の通り(22頁)。 
 『老いについて考える時、まず老いとは何かという定義を構えないと人によって混乱が生じる恐れがあります。人は誰でも一旦生まれれば、その翌日から成長とともに老いていきます。その果てに齢を重ねることでいかなる段階に至ればそれを老いと定義するのかは人によって千差万別のことですが、大別して生殖期と呼ばれる時期の終わりと、その後に時間の経過とともに到来する更年期と、その後に起こる老化の体現によって老いとして認識されます。
 その現象は千差万別で多くの臨床家たちは、老化とは人が生殖機能を失った後に加齢とともに起こるさまざまな衰退現象として捉えています。
 それが千差万別なだけに、老いてからの人生は悲劇喜劇を取りまぜたものになりやすい。それ故に人それぞれの自覚によって老いてからの生き様は変わってくるのです。誰しも老いは鬱陶しくも物悲しくもありますが、それを踏み越えていかに甲斐のある人生を全うするかが大切なことです。
 老化にともない誰にでも現れる不可避な現象は病気ではなしに「生理的老化」と呼ばれる現象で、皮膚の皺(しわ)、染み、老眼、白内障、難聴、骨量減、動脈硬化、筋肉量の減少など遑(いとま)がありません。・・(略)・・しかし、こうした機能が加齢によって低下していくのが「老化」ということです。それに備えることが老いを健全に生き抜くための知恵の出し所です。つまり転ばぬ先の杖ということです。
 ・・・・(略)・・・・
 私が熟読しているソルボンヌ大学の哲学の担当教授だったウラジミール・ジャンケレヴィッチの名著『死は』、あらゆる角度から人間の死についての分析をしていますが、彼にとって最後の「未知」、最後の「未来」である死についてこの齢になるとつくづくの興味で考えざるを得ません。その思考は人生の成熟がもたらす最後の趣味を超えた楽しみかもしれない。』

「老人力」
 同じ時期、もう一冊「老人力」(赤瀬川原平、筑摩書房)という本も目についたので取り寄せた。
 赤瀬川氏は1937年~2014年(77歳没)、この著作は1998年9月、氏61歳のとき。

 帯の案内は次の通り。 
 『ろうじんりょく【老人力】  物忘れ、繰り言、ため息等従来、ぼけ、ヨイヨイ、耄碌として忌避されてきた現象に潜むとされる「未知」の力。
──  ついてきた【老人力ー】  ぼけ、ヨイヨイ、耄碌の婉曲表現」。「近頃、
すっかりあのアレがついちゃって、どうも思い出せない、何といったかねえ・・」
「ーですか?」「そう──  ──  。どうしてわかったの?」かぞえ方一本。

 そして、内容のエッセンス思われる文章の抜き書きは次の通り(8頁~)。 
 『人間、歳を取ると物忘れがひどくなるというのは誰しもあることで、えーと、何だったかな・・・・、ということがよくある。よくあるというより最近はぐんぐんと増えてきていて、
「えーと何だったかな・・・・」
と訊くと、家人に、
「知らない!」
と言われたりする。あまり繰り返しているとたしかに「ご自由に」という感じにもなるだろう。
 ・・・・(略)・・・・ こういうのをぼくら(※)では「老人力がついてきた」という。
 ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代わりに、
「あいつもかなり老人力がついてきたな」
 というふうにいうのである。そうすると何だか、歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい。
 ・・・・(略)・・・・ (※)ぼくらでは、の、ぼくらというのは、路上観察学会のことである。つまり老人力の発見は、このサークル内のことだった。その中のとくに藤森照信と南伸坊が第一発見者である。で、発見者はこの二人なんだけど、発見物はぼくらしい。つまり素材であるぼくの中のある何かに、この二人は老人力というものを発見したのである。』

 「未 知」
 両著書それぞれに「老い」の関係性を問題にしているが、著者それぞれの来歴による価値観からの考察であろう。二冊を読んで気がついたのは「未知」というワードである。「老い」の先は人に誰しも「未知」である。そして両著者ともこのような「老い」を問題にしているが、端から見ると両著者の「衰え知らず・老い知らず」という「老人力」のワードも頭に浮かんでくる。この場合の「老人力」という表現は、赤瀬川氏らが提唱した概念とは違って「老人の力強さ・老い知らず」という意味での使用である。赤瀬川ら氏はこの表現を「誤用」としている。
 しかし、言葉の意味は時の経過とともに変遷するものであって、例えば「ヤバい」という言葉は本来「危ない」の意味であるが、最近の若者が使う「ヤバい!ヤバい!」は「最高!すごくいい!」というような意味で使われている。

 さて、問題は「未知」に対する不安であるが、人生を将棋に例えると手数が違うだけで誰もが詰んでいるのである。この手数を数えるのは人智の及ぶところではなく神のみぞ知る世界である。そうであるなら「未知」に対するジジの答えは「あれこれ・あるがままに」の心の持ち方、南無大師遍照金剛、この世あの世もお大師様、行くはとこしえ高野墓碑(時事折々第44回「洒落のまた洒落」)

 本コラムを読み返してみると他人の文章の引き写しが半分以上。今回、コロナ禍疲れで創作意欲減退、他人のふんどしで相撲を取った次第。