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あれこれ・あるがままに(第132回)    平成31年4月24日
                          
  
新 元 号 『 令 和 』

<本題に入る前>
 時は爽やかな青葉に向かう頃、ジジの76歳の誕生日は4月19日、前夜の夕餉食卓はジジ好み年寄りメニュー、チーンより手はかかるが食材費はあまりかからない。缶ビール一缶と麦焼酎いいちこ一合(湯割り4杯)を友に美味しくいただいた。
 そら豆の塩ゆで
 木綿豆腐の湯浸し(鰹削り節、とろろ昆布添え)
 タケノコの木の芽和え(タケノコは頂き物、木の芽は庭に植栽)
 ほうれん草のお浸し(中乾シラスかけ、お浸しは昨日の残り物)
 マグロの造り
 鯖切り身の焼き物(片身の半分を更に半分の半分にした大きさ)
 だいこ(わかやま訛り)・ちくわ・絹さやの煮物
 きゅうりの漬物(ぬか漬け)
 タケノコご飯

<新元号>
 さて、去る4月1日、新元号が『令和』と発表された。大方は好評のようである。ジジは当サイト1月ページで新元号を予想し、「和」という漢字の使用がふさわしいのではないか、と希望していたので好感を持った。
 新元号の発表後、それぞれの思いが公表されているが、「和」という字には殆ど異論がないようであり、「令」の字は受け止め方により思いに違いがあるようである。好感派の多数は「令」の字が上にくる「令嬢」「令息」などの二字熟語を想像し、「気品」とか「美しい」という意味で捉えるようであり、他方の??派は「令」の字が下にくる「命令」「訓令」などの二字熟語を想像して、「従わせる感じ」とか「レイという語感が冷たい感じ」と受け止めるようである。
 ここは、「命令」という漢字を想像するとしても、発表直後のニュース報道でマイクを向けられた10代の男性が、「命令の令だからルールを守って平和な時代にしょうという意味かな?」と語っていたが、このような受け止め方をしょうではないか!!。豆腐も切りようで丸くなる!!。

<新元号の典拠>
 ところで、「令和」の典拠は、『万葉集』の巻五、梅花の歌三十二首の序文の一節である「初春令月 氣淑風和」から「令」と「和」を引用して考案された造語であり、初めて漢籍ではなく日本の古典(国書)から選定されたという。
 以下、勉強のためにネット検索から序文の抜粋と最初の一首と最後の一首を引用して雰囲気を味わってみよう。

(序文の抜粋)
《原文》 天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也、于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香
《書き下し文》天平二年正月十三日に、師の老の宅にあつまりて、宴会をひらく、 時に、初春の令月にして、気よく風やはらぎ、梅は鏡前の粉ひらき、蘭は珮の香かをらす
《現代語訳》天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時は初春のよい月であり、空気は美しく、風は和やかで、梅は鏡の前の美人がおしろいで装うように花咲き、蘭は身を飾る衣に纏う香のように薫らせる。

《コメント》この「天平二年正月十三日」は、今の歴ではいつになるのであろうか?西暦の730年であることは確かであるとして、グレゴリオ暦換算では2月8日に当たる。なお、和暦換算表などの資料によると「2月4日」としているものもあるがユリウス暦の関係であろうか?。
 いずれにしても、宴は2月上旬のころ。32首の歌は満開の梅の花を見ているような様子が多いが、その時期、梅の花が満開であったのであろうか?。 ここでジジ一流の素直でない見方をすれば、「宴主に忖度をして満開の花を想像しおべっかをしているのではないか?」とも思うのである。

(最初の一首815)
《原文》武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎都々 多努之岐乎倍米
    むつきたち  はるのきたらば  かくしこそ  うめををつつ  たのしきをへめ
                               [大貳紀卿]
《現代語訳》正月になって 新春がやってきたなら このように梅の寿を招いて 楽しき日を過ごそう。

(最後の一首846)
《原文》可須美多都 那我岐波流卑乎 可謝勢例杼 伊野那都可子岐 烏梅能波那可毛
    かすみたつ  ながきはるひを  かざせれど  いやなつかしき  うめのはなかも
                              [小野氏淡理]
《現代語訳》霞の立つ 春の日を 一日かざしつづけても なお恋しい梅の花だなあ。

<万葉集の時代>
 「令和」は漢字2文字の漢語であり、日本語の話し言葉ではない。元号の「令和」が漢籍か国書であるかどうかは学者の知識にまかせるとしても、今後の元号の選定は国書由来の方向になるであろう。
 ジジの興味は、万葉集は奈良時代の西暦700年代に詠まれた和歌が収録・編纂された歌集であるが、その頃は未だ平仮名が発明されていない時代であった。よって万葉集の序文は漢文で表記されているが、和歌は話し言葉であるから漢字では表記できず、上記《原文》のようにいわゆる万葉かな表記である。

 ジジ何を思う。万葉和歌の作詞は、言葉を表現する文字を持っていない時代であり、作り手の多くは漢字を知らず万葉かなの読み書きもできなかったであろう。すなわち、当時、人は3~5才の幼児のように話すのは達者でも、文字がないので文字を頭においた作詞作業ではなかったはず。そのような時代、和歌の記録と収集はどのようにしたのであろうか。口伝が中心であったのか?。

 今では、文書・書物といえば漢字仮名交じり文であるが、このような表現方法が一般的になるのは平安時代も半ばに入ってからの西暦900年代以降のの『源氏物語』、『今昔物語』、『平家物語』などからであるという。
 ジジは長年文章を書くことが多い仕事をしてきたが、万葉集の時代を頭に浮かべてみると、いにしえ人の生活は想像を超えるところがある。そうは言いながら、ジジもだんだん字忘れで幼児化、もはやジジが作文しているのか、パソコンが作文しているのか?ネットとワープロに補佐されながらのパソコン生活。そのような日常ながらも、これから先、多努之岐乎倍米(たのしきをへめ=楽しき日を過ごそう)。

<むすび:無須備>
 あたらしき  げんごうれいわ  おめでとお  さつきついたち  みよがわりのひ
 阿多良之伎 夏無胡宇礼以和 於女出戸於  佐都伎都以多千 弥夜我和里野日