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        あれこれ・あるがままに(第15回)    
平成21年9月5日


                    変         化


 9月に入り、28年余続いてきた朝8時半過ぎの時間の使い方に変化が生じ、たいへん戸惑っている。実は、28年前の昭和56年(1981)4月、弁護士登録と同時に奈良から和歌川町の現住所に移り住んだ。人は皆、生を受けてから人との関わりのなかで生きていくのであるが、その移住には和歌川町で医院を開業されていた医師先生ご夫婦に世話になった。以下、同医師のことを「先生」という。先生との付き合いは、その後今まで28年余の間、ウイークデイはほぼ毎朝、先生宅経由で出勤、自宅を朝8時半きっかりに自動車で出発、2分でお宅に到着、15分ほどお茶を共にし、15分ほどで事務所に到着、午前9時5分過ぎの出勤というのが変わらぬ日課であり、毎朝起床してから自宅を出るまでの時間も体内時計がそのスケジュールにあわせてセットされていたのである。
 その先生が8月末に逝去された。このため8時半前後の時間配分に変化が生じ、戸惑っている次第である。

 先生との出会いは、50数年も前の昭和30年(1955)過ぎのことである。先生が紀伊半島北部地域和泉葛城山山麓の川原診療所へご家族(妻、女児2)を帯同され赴任されたときが初めてであった(赴任中に男児が誕生)。ハンサムで若々しく、ご家族は当時の田舎の家庭とは異質で都会的な雰囲気があり、そして今様で表現するとアットホームなご一家であった。当時はバイクはともかく自家用車を持っている家などはなかったと思うが、ご一家はマイカーのスバルに同乗され新赴任地入りをされた。眩しいというようなシーンであった記憶がある。川原村(現紀の川市)は私の生家の在所であり、私の父は明治27年(1894)生まれで、当時農協組合長の職にあったことから、診療所の維持や先生の招聘に尽力する立場にあったという事情があったので、先生ご夫婦は当時中学生の悪ガキであった私を可愛がって下さった。私は嬉しく自慢であった。


 先生は昭和3年(1928)生まれ、外国航路の船医の経験もあると聞いたことがあるが、長年、紀伊半島内の僻地医療に携わられた。最初は熊野川町の診療所(熊野川上流域の秘境瀞八丁近く)で2年あまり、転じて上記川原診療所で約4年、次いで中部有田川上流域の紀美野町毛原診療所で約13年ほど、僻地医療の期間は延べ20年ほどに及んだが、それぞれの地域医療の恩人である。そして、昭和50年(1975)頃、和歌川町の自宅で医院を独立開業され、以来奥様の補助を得て開業医として医業に従事された。先生の医師としての仕事ぶりは、その経歴から推測できるように全科対応のマルチ医師で、好奇心旺盛、収入には無頓着、尊敬できる「赤ひげ先生」であった。


(「赤ひげ先生」という用語の使用に当たりネット検索をしたところ、「赤ひげ先生」とは、山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』を原作とした黒澤明監督のの映画『赤ひげ』(1965)から広まった言葉で、その映画のイメージから、現在では、「地位や名誉にとらわれず、地域住民(特に下町)のために働く立派な医者というような意味で使われることが多い言葉」という解説があった。本稿はその解説の意味で使用した。)

 平成9年(1997)に奥様を亡くされるのであるが、その数年前から医院での診療活動は事実上中止され、その後は気の向くままにパート嘱託医、保険審査医をされていたが、時間を過ごす軸足は木彫、麻雀等の趣味やその他の道楽に置き、またカメラ、パソコンを自在に操り、「自由、気まま、そのまま」といううらやましい余生を過ごされた。特に、奥様を亡くされた後はその他の道楽に軸足の重心が移った時期があった。

 私は、奥様が亡くなられた後も毎朝一人暮らしの先生宅の朝の訪問が続いていた。ところが、去る4月13日腹部腫瘍摘出手術という事態となった。手術の4〜5日後、先生は主治医から手術所見のカルテのコピーをもらい、そのコピーを私に見せながらその病理所見をメモするようにと言われた。記載所見:Undiffer enti.ated high grade pleamorphic sarcoma(MFH.strifrom type) suggestive(スペルの写し間違いがあると思う)。

 4月30日退院、5月2日長年の雀友(木彫友達とも重なる)と麻雀、5月3日は娘夫婦が紀美野町で建てている山荘へピクニック行。このピクニックには、娘さん夫婦ら家族と彫刻の弟子であった身内の女性、そして私と妻がご一緒した。皆、心の中ではすこし無理な感じがして心配したが、遠出はこの機会しかないのではないかという気持ちもあって同行した。しかし、その夜心臓不調を来たし、再入院、病院医師の懸命の治療と家族の必死の介護により、7月中旬退院にこぎ着けた。以来、自宅で更に手厚い介護、看護が続けられ、8月末、自宅ベッドで大往生を遂げられた。享年82歳、合掌。

 (5月3日に山荘で採った山蕗はキャラブキにして食したが、このことは第12回「初夏の夕餉メニュ−」