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あれこれ・あるがままに(第10回)   平成21年2月1日

                子ども頃の節分行事( 備忘録 )             

 今年の節分は2月3日、昭和25年頃の紀ノ川中流域、葛城山山麓辺りの山村の節分会。

 用意するもの

 箸     指の太さ位、長さ30〜40p位の樫の木の枝と栗の木の枝で先を少し削って箸を作る。
 ほうらく  素焼きの平たい土器で、豆などを煎るのに用いる。
 豆     大豆、その頃は水田の畦などに植えて栽培したので、別名アゼマメ(畦豆)。
 一升枡  水田農家の必需品であった。
 鬼の目突き ススキの穂の茎部分を20p位に切り、先の方に5p位切り込みを入れ、柊(ヒイラギ)の葉っぱを1枚挟み、挟んだその先に鰯を3p位に丸切りしたものを差し込む。

 行 事


 
午後、豆を入れた「ほうらく」を「へっつい(竈のこと)」にかける。火を入れ、カシとクリで作った箸でほうらくの豆をかき混ぜるのであるが、そのとき「カシ・・クリようまわれ・・・・・カシ・・クリようまわれ・・・・・」と節をつけながら煎っていくのである。
(その意味は知らないが、カシとクリの木はよく実をつけるので、その木で作った箸で五穀の一つの豆をかき混ぜ、五穀豊穣と無病息災を願ったものであろう。)

 煎り上がったところでさましてから一升枡に移し、お供え用の木の器(オヘーギと呼んでいた。「御弊器」と書くのだろうと思うが、間違いか?)に、少し盛り、神棚にお供えする。豆の入った一升枡も神棚に供えて保管しておく。

 夕方、藁を燃やし「鬼の目突き」の鰯を炎で炙ってから、家の各戸口の上の方にさし込む。鰯の臭いとヒイラギの棘で悪霊退散。

 夕食に一家そろって「お節料理」をいただく。料理は、鰯の焼き物、子芋と大根の煮物が定番。

 夕食をいただいた後、一升枡の豆を神棚から下げてくる。
 先ず、玄関入り口で、戸を開けて外に向かって「オニハーソト・・・オニハーソト・・・オニハーソト」と三回呼称。
 その後今度は入り口の外から「フクハーウチ・・・フクハーウチ・・・フクハーウチ」と三回呼称。
 (当時は、玄関入り口から台所を通って家の裏まで土間であった)

 その後、一家あげて「年をとる」のである。
 煎った豆が入った一升枡を中心に車座に座り、家人それぞれが自分の年の豆を数えるのであるが、豆の数は数えの年に一つ多めに数える。昭和25年と言えば、ジジの年数え8才、豆は九つで直ぐになくなる。ジジの父親は明治27年生まれで数え59才、自分では消費できないので8才の息子に助けて貰う。

 アー! ノスタルジア・・・

 もう一つのかすかな記憶。
 神棚に供えたオヘーギの豆は、その年初めて雷が鳴ったとき神棚からたばって(賜って)きて、「くわばら、くわばら」と言って食べたような記憶がある。

 子供の頃の正月は→あれこれ・あるがままに(第2回)