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   あれこれ・あるがままに(第2回) 平成18年12月31日


               子どもの頃の正月(備忘録)
 
 今日は、大晦日。

 子どもの頃の正月はどうであったろうか。


 情景

 昭和25年ころのこと。

 粉河寺の北方・葛城山の麓にある農家、当主明治27年生まれ(55歳)、当主の妻明治

41年生まれ(42歳)、跡継ぎの婿養子(大正15年改めの昭和元年生まれ)と妻(大正14

年生まれ、ジジの姉)、その長女昭和23年生まれ、ジジ昭和18年生まれ。

 旧暦で正月を祝っていた。


 31日は正月準備。

 早朝に餅をつき、次いで、家の前庭に門松2本(高さ 1メートル位の雄松と雌松、)を約1メ

ートル間隔で立て、一方の松の中程辺りからもう一方の松の中程辺りにかけてしめ縄を渡

す。そして、座敷の神棚(お伊勢さん・天照皇大神宮と産土神社のお札を祀っている)と台所

の間の神棚(恵比寿さんを祀っている)の2カ所、大釜さん(おがまさん)に祀ったお不動産さ

んのほか、玄関入り口等にしめ縄を張る。次に、家の外の門田(かどた、前庭に続く野菜など

を作っている田んぼのこと)を鍬で浅く掘り、「作り初めさん」(榊、松、梅の枝等を直径10セ

ンチメートル位に束ねたもの)を置き、根本を土で固定して立てる。こうして、男たちの準備は

整い、女は朝から重組のおせち料理の支度をする。夕食は、小芋と大根の煮物で最後の晩

餐を祝う。夜遅く、1キロほど離れたお寺から除夜の鐘の音。


 正月1日

 午前5時半ころ、まず男だけが起きて雑煮を炊く。最初の儀式は、家の外の井戸に「若水」

を迎えに行くこと。昔はどこの家も外に井戸があり、まだ辺りが暗いので提灯をかざしなが

らの行列。明治、大正、昭和と続く。若水は、前夜にしめ縄を張った上バケツに水をくみ置

き、水の中に柑子蜜柑を入れて準備をしておく。

 次に、その水で男だけで雑煮を炊く。当時の竈は「へっつい」さん、大・中・小の焚き口と茶

釜の焚き口があり、普段の飯釜は中の焚き口を使っていた。雑煮の火を下火にして、神棚

と仏壇に供え、一家で雑煮を祝う。(じじ結婚後はや37年、雑煮を男の手で炊く風習だけは

今も続いている


 正月2日

 朝から男は門田に作った「作り初めさん」の飾り付けをする。年末に準備していた太めの篠

竹を長さ約30センチメートルに切って弊串を作り、これに縦に少し切れ目を入れ、ここに半

紙を折り重ねて切って作った弊をはさみ込み御幣を作る。この御幣(7本であったか、12本

であったか)を「作り初めさん」の根元のまわりの土にさして飾り、次に、約1メートル余りの

篠竹を4っつ裂き、できた」4本を楕円形に折り曲げながら「作り初めさん」の根本の土に差

し込む。その意味は知らないが、農耕にまつわる風習であろう。


 正月7日

 七草かゆを祝う。


 正月11日
 とんど焼き。正月の松飾りなどを苗代田で焼き、その火で餅を焼いた。

 一般的には1月15日の行事であるが、ジジの家の地域は1月11日ではなかったか?

これは正月気分を早く納める意味があったのであろう。