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あれこれ・あるがままに(第86回)    平成27年6月24日
                          
  
心の欲するところに従って、矩(のり)を踰(こ)えず
 
 ジジは七十を2年アップした。標題の一節は中国,春秋時代の学者,思想家の孔子(BC479年、73歳で没、儒教の祖)の言葉として論語に収録されている一節である
【論語 巻第一 為政第二 四】
 子日く(のたまわく)、
 吾れ十有五にして学に志す。
 三十にして立つ。四十にして惑わず。
 五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。
 七十にして心の欲するところに従って、矩(のり)を踰(こ)えず。

 訳:先生がいわれた、
 私は十五歳で学問に志し、
 三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、
 五十になって天命をわきまえ、六十になって人の言葉がすなおに聞かれ、
 七十になると思うままにふるまってそれで、道をはずれないようになった。
【論語 金谷治 訳注・岩波文庫】より。

 孔子は、七十を超えてから『自分の心に思う事をそのまま行なっても、道徳の規範から外れることはない』という心境を語っているが、偉人学者の自力本願的思考による『悟り』の境地であろうか。悟りとは真理に到達することであるとすると、仏教的アプローチで表現すると『諦観』の境地であろう。
 (なお、諦観とは単なる「あきらめ」ではなく、明らかに「真理を見る」ということで、あきらかにみる、あきらかにみる、これを繰り返せば「あきらめる」になり、諦観とは明らかに真理を見るという悟りの境地を言うのである。いや!!自信はないがジジの理解である。)

 さて、ジジも七十を超えたが、その境地や如何!!
 この年になるとあまり道をはずれる行いはしていないと思うし、したいと思う気持もめっきり少なくなった。ジジも『心の欲するところに従って、矩(のり)を踰(こ)えず』の境地に近づいたのであろうか。
 しかし、ジジのそれは孔子さまのような自力本願的思考によって『悟り』に至ったということではなく、凡人の身にあれば年をとるとともに眼・耳・鼻・舌・身・意の退化に合わせて進行した「あきらめる→あきらかにみる」という相関からの諦観である。また、歎異抄の『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』をもじって『偉人学者なほもて・・いわんや凡人をや』という他力本願的諦観でもある。偉人学者であっても凡人であっても年齢に後戻りはなく、色即是空の真理に二つはない。生かされるままに生く。

 人生を地図の縮尺に絡めると面白い。足腰が達者で目も良く利く十代のときは夢も大きく、縮尺の小さい世界地図や日本地図が難なく見えるが足下が何処か見えない。次第に縮尺が大きくなり三十代以降は家庭地図が中心となり、六十代以降の縮尺はこれ以上はない大きさとなって足下がはっきり見え、加えて足跡の終着点辺りまで見えてくる。面白いものだ。

 訳のわからないご託を並べてきたが、明らかなのは自分がいまだ煩悩五欲からの解脱までに至らず涅槃の境地も定かには見えない。南無大師遍照金剛、衆生済度、同行二人、おしまい。