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あれこれ・あるがままに(第76回)    平成26年8月15日

  
子供の頃の台風のこと

 今日は8月9日の土曜日。先程、知人からの暑中見舞いに併せた所用の手紙に対し、返事の書き出しを次のように書いて投函した。
 『暑中見舞い状をいただきありがとうございました。この8月は、12号から11号と台風のニュースが占めています。今日9日夜から明日10日(日)にかけて11号が和歌山に接近してくるようです。私は紀の川市粉河寺北方の稲作農家で育ちましたので(現在は桃農家になっている)、子供の頃、収穫を間もなく迎える稲が台風襲来後に青畳を敷いたようになった光景がトラウマのように脳裏にあり、今でも台風接近の情報には怖さで緊張するのです。私の妻は子供の頃を大阪府吹田市で過ごしたせいか、台風は学校がお休みになり「よかった」という、のんきな思い出のようです。さて、・・・』

 子供の頃の台風の記憶と言えば、先ず昭和25年(1950年)9月3日に襲来した「ジェーン台風」である。ジジ7歳のときであるが、この台風は降水による影響よりも、強風の影響が大きかった「風台風」の特徴があった。
 ジジの家は、紀ノ川の中流域の右岸(北)側で、紀ノ川に注ぐ名手川をさかのぼること約4キロメートルの泉葛城山のふもと辺りに位置していた。建物は紀北地方の典型的な農家様式で、母屋と長屋、南向き、母屋は入母屋造りで玄関入り口から土間が建物北側の台所まで続き、土間を挟み右側(東側)には「いらず」と呼んでいた物置部屋と続いてへっつい(厨房)があり、左側は田の字型に畳の部屋4室が襖・障子で仕切られていた。南側2部屋の庭側には半間の板張り縁側があり、建物と外はガラス戸と板作りの雨戸で仕切られていた。

 ジェーン台風は、9月3日午前10時頃徳島県東端に上陸、紀伊水道から淡路島付近を通過、大阪湾に入り、昼頃神戸市垂水区に再上陸、その後若狭湾から日本海へ抜けた。
 その日、午前10時半頃から風が強くなり、最初東から南の風が強く吹いてきたので、父は家の北側の戸を開けさせた。万一南側の戸が吹き抜かれたとき風を逃がすためである。当時、家族は両親と7歳のジジ、姉夫婦とその2歳の娘で5人家族であった。父は母屋の雨戸側、義兄は長屋や農具倉庫と外回りを受け持ち、母と姉は父の指図に従っていた。11時頃にはいよいよ風が強くなり、ピュー!ピュー!、ゴー!ゴー!という音がし、庭側の雨戸とガラス戸はその音に合わせるように、ヒュン!ヒュン!と弓なりにしなるのである。とても落ち着いてはいられない。父はしなる戸を両手で支えていたが、ジジも父の仕草を真似て戸を支えていた。風の音と戸のしなりがひときわ強くなったとき、父の口から思わず「南無大師遍照金剛!南無大師遍照金剛!」という経が唱えられていた。
 しばらくして風が弱くなりおだやんだとき、父は誰に言うともなく「台風の眼に入ったな」とつぶやいた。そして、「間もなく吹き返しの風が強くなるが、これはそんなに長くはない。」とも言っていた。父が言ったような経過が過ぎ、父はまた「風が乾(いぬい)にまわったな。これで台風が通り過ぎた。」と言った。
 (台風は左回りの渦であるので、台風が自分の位置より西側を進むときは、風は最初東から吹き始め南風になるが、この南風になった頃が台風が一番近い位置を通過しているときである。風が西からの風に変わったときは台風が北方の遠くまで行ったということなのである。)

 父はこの台風で雨戸のしなりがよっぽどこたえたのであろう。その後間もなくして雨戸の内側から「かんぬき」(戸を支える横木)設備を設置した。しかし、ジジのトラウマは戸のしなりを見た恐怖ということではない。台風が通り過ぎた後、間もなく収穫を迎える稻が、風が吹いた方向に波打って靑畳を敷き詰めたようになった光景である。父は倒れた稲を少しでも助かるように世話をしていたが、ジジも稲作農家の子供としてその光景が我が家にどれだけ影響があるのか理解できた。以後、「台風」というとこの光景が頭に浮かびトラウマのようになったのである。
 この台風はものすごかった。近所の古い藁葺き家屋2軒が倒壊し、瓦がめくられた家も何軒かあった。台風が過ぎた後、母親が近所の人と「えらい風やったのし。」「ほんまに!おとろしかったよ。」という会話をしていたのを憶えている。

 その後の台風の記憶といえば、昭和34年(1961年)の「伊勢湾台風(台風15号)」と昭和36年の第2室戸台風(台風18号)である。前者の台風は東側の通過であったので、風は北から吹いた。このときの風も強かったが、ジジの家は北側に土塀があり大きな山桃の木が植わっているので、風がずいぶんと遮られ被害が出るまでには至らなかった。
 第2室戸台風はジェーン台風と同じようなコースを通ったが、ジェーン台風の後設置した「かんぬき」が役に立ち雨戸のしなりもすくなく、また高校生になっていたので怖さの印象は少ない。しかし、二つの台風とも大きな被害をもたらしたことは記しておかねばならない。

 終わりに、台風ではないが、大きな水害を目にした光景を記しておきたい。それは昭和28年7月の紀州大水害のことである。
 この水害は「28年水害」とも呼ばれ、和歌山県北部に1日で500mm以上の雨量を記録し、死者行方不明者1015人、家屋全壊3209棟、家屋流出3986棟、崖崩れ4005カ所、被災者26万2千人にのぼる和歌山県史上最悪の気象災害といわれている。被害は和歌山県内の有田川、日高川、熊野川を中心に発生したが、紀ノ川流域でも浸水被害が発生した。中でも有田川上流の花園村(現在かつらぎ町花園)では大規模な山腹崩落により中心集落が壊滅するという被害が出た。
 ジジはこのとき10歳であったが、恐ろしい光景を目にした。ジジの家がある在所は名手川の上流域約4キロメートル程の紀ノ川より一段と標高が高いところにあり、山が目前という辺りである。その辺りの川は谷となり、両岸ともV字型の斜面で上方の在所まで至るが、その斜面には小さい水田が何段も貼り付き棚田のように上方の在所まで上がっている、そのような山里であった。
 ジジの家は右岸側にあり、200メートルほど西に行くとこちら側の名手川に至る谷底に下がっていく斜面と、向かい側の棚田の斜面が一望できる場所がある。そこは景色と眺めが良いのでジジお気に入りのビューポイントであった。

 ジジの家の辺りはその立地状況から河川の氾濫には無縁の立地であるが、昭和28年7月18日恐ろしい水害を目にしたのである。上記ビューポイントから見えるたは、対岸の棚田の上から下へと段々に土色の泥水が滝のように流れ落ちているのである。その滝の数は棚田の幅と数だけあり、棚田を開いた農家の痛みを思い、胸が締め付けられた。この被害は、ジェーン台風で述べた「青畳を敷き詰めた」という以上に、泥水の冠水という回復困難な痛手であったと思う。
 この原因は、上方在所の農業用ため池が大雨のため決壊したということであった河川の氾濫に無縁な山里にそれこそ「想定外」のできごとであった。

 ところで、この国にはその後も「想定外」の災害が数多く発生している。東日本大震災の津波と原発事故が筆頭であるが、新しいところでは平成23年8月の台風12号による紀伊半島大水害であり、那智の滝の惨状には息をのんだ。
 ジジが思うに、近年の災害は気象災害でも質が違ってきたように思う。地球温暖化の影響であろうが、地球の将来が心配である。