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あれこれ・あるがままに(第74回)    平成26年6月27日

  
胸 痛 む 事 件

  日々のニュースで人の生命が犠牲になった事件を目にすると胸が痛む思いがする。中でも子供が犠牲になった事件はなおさらである。最近厚木市で発生した5歳男児の遺棄致死事件は、どの事件にもまして胸の痛みが大きかった。朝日新聞6月18日13版・36面で扱ったこの事件の次の見出しを目にすれば、誰であってもそのような胸の痛みを覚えるであろう。
    厚木の遺棄致死事件
    【5歳 暗闇 独りの最後】
    【6畳 戸・窓にテープ 監禁2年】
    【やせた体 声絞り出し「パパ」】

 ところで、この事件や、平成13年に8人が犠牲になった付属池田小事件、平成11年の光市母子殺害事件など、特に子供が犠牲になった事件や子供が巻き込まれた事件に対しては、世間の犯人に対する非難が極めて大きいものがある。そして、日を追って「犯人を速やかに重罰に処すべし」という声が大きくなりがちで、その後の裁判についても「法にのっとった審理」にまで非難が向けられることがある。

 弁護士をしていると、世間が注目するような事件が発生した場合、他人から「なぜ、弁護士はそんな悪人を弁護するのか?」という問いかけがあったり、また、自身にとっては「自分に弁護の依頼があったらどうするか」という目で事件を見ることがある。

 弁護活動については、「弁護」という言葉自体に「庇う」という意味があるので、ともすると、「弁護士はどうして極悪人を庇うのか」などという受け止め方になったり、また、「金になりさえすれば黒も白と弁護して悪人を庇うのが弁護士」と受け止められる下地がある。
 しかし、弁護士が悪人を弁護するのは、その悪人自身を庇うのではなく、その悪人自身の有罪・無罪の認定、量刑の適正性を権力や世論の圧力という不正義から庇うのであって、別の言い方をすれば「適正手続を弁護する」のである。適正手続とは、どんな悪人であっても法律の定める適正な手続に従って裁かれなければならないという法治国家の大原則である。

 ここまでは優等生のコメントであり、ジジは実際にもこの姿勢で弁護活動をしてきた。しかし、もう歳を老いた。食べ物も固くても美味しいというものより、柔らかめで脂が少ないのがよい。弁護活動についても同じで、「悪人の弁護」というような固いことには手が出ず歯が立たなくなった。冒頭で取り上げた厚木市遺棄致死事件などは、もはや「自分が弁護人の立場になれば」というような想像もわき起こらず、ただ5歳男児の不憫さに涙を流し、冥福を祈るのみである。

 最近、有限会社インタープレアデス社が毎月発行する同人誌「プレアデス」に女性作者の次のような詩が掲載されているのを目にしたが、ジジの気持そのままの思いがした。そこで、作者の方と発行所の了解を得て転載させていただいた。

   りくちゃんへ(奥山ふみ枝・大阪)
     母に捨てられ          
     父に虐待され殺されたあなた
     誰に気遣われることもなく
     たった5歳で
     飢え死にさせられたあなた
     独り死んだまま七年も
     放置されていたあなた
     最後の言葉は
     「パパ・・・」
     父らしいことなど露ほどもしなかった父親に
     「人殺し!」
     「人でなし」
     そうつぶやくこともできず
     死んでいったあなた
     あなたのために
     どうかほんとうに
     天国がありますように
     マリア様に抱かれ
     空腹も心細さも恐怖も
     全て癒やされる
     天国がありますように
     
     あなたのために私ができることは
     涙を供え
     祈ることしかありません