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あれこれ・あるがままに(第51回)    平成24年8月8日

  
大恩人との惜別
 
 
 大恩人山本寅之助先生の訃報が知らされた。私、そして私ども夫婦には先生の存在があまりにも大きく大事な方であったので、私は全身の力が抜けるような気がし、お知らせにお返しする言葉も出なかった。先生は、大正3年3月寅年のお生まれであったから享年99(満98歳)の一期であった。今先生のことを想うと、真っ先に「慈悲あふれたお人柄」という思いで頭がいっぱいになり、次いで「かけがえのない人生の師であった」という思いが心を占める。


 私は昭和41年4月に大学を卒業し、地方公務員として和歌山県庁職員に採用され、その年の9月から勤務する予定となっていたが、「弁護士」の夢を捨てきれず、なんとかその方向性がないだろうかと模索していた。そうしたところ、私の夢を知っていた町役場に勤務する従兄弟が、同僚から『うちに毎年大阪の弁護士から年賀状をくれているが、どうやら親の代あたりの遠縁にあたるらしい。』という情報を入れてきた。その話を聞き、安易にも夢であった「弁護士」への近道をとろうとして県庁職員を辞退し、「弁護士の書生」になるため大阪梅田新道の「山本寅之助法律事務所」(現:弁護士法人淀屋橋法律事務所)の門をたたいた。先生との出合である。


 先生は押しかけ書生を快く受け入れて下さった。勤務して直ぐの頃、先生は梅田太融寺のお初天神商店街にあった「お染め」という小料理屋に連れて行って下さったことがある。
 先生 「田中君は酒が飲めるのか?」
 私   「はい。飲めますが、目的を突破するため飲まない覚悟できました。」
 先生 「それはよいが、司法試験は簡単に突破できるものではないよ!酒を辛抱する!何もかも辛抱する!ということでは続かないよ。ほどほどにして勉強を頑張りなさい。」
 このような会話があり、お酒もいただき、仕上げは「鯛茶漬け」をいただいた。 そして、その晩は先生の芦屋のご自宅に泊めていただいた。お宅にお邪魔して奥様にお目にかかり、私はマリア様を見たような気がした。見たこともなかった芦屋の洋風邸宅で美しくお優しい奥様にお目にかかったとき、どうしてなのか「マリア様」をイメージしたのである。奥様には今日までたいへんかわいがって頂いてきた。


 その後、押しかけ書生は、結婚、司法試験合格、法律事務所開設等、節目節目でたいへんお世話になりよくして頂いた。結婚についてはご夫婦が仲人をして下さり、遠方にもかかわらず和歌山の田舎方式の結婚式に出席を賜った。これまでに先生から受けたご恩は計り知れない。
 私が今まで弁護士の業務を曲がりなりにも過ちなく努め得ているのは、先生の正義感と廉潔さをお手本にしてバックボーンにしているからであり、また、今円満な家庭を持ち得ているのは先生のアットホームなお考えに接したからである。


 私自身古希を迎えた今、これからの余生も先生の生き方を体し、間違いがないよう歩ませて頂くことをお誓いし、惜別の情、耐え難いものがありますが、謹んで哀悼の誠を捧げご冥福を祈る次第である。