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あれこれ・あるがままに(第26回)    平成22年8月日

  
松   根   油
 
 孫4人のうち一番年長が長女夫婦の長男で小5になる。長女夫婦と子供二人は、この8月14日・15日我が家に滞在したが、終戦記念日を前にした14日の晩、小5君から夏休みの宿題で「おじいちゃんとおばあちゃんの戦争体験を聞いてくる」というのがあるので語って欲しいと言われた。
 ジジが語ったのは、三つ。
 その1: ジジが生まれたのは戦争末期の昭和18年、ジジが姉(大正14年生まれ)から聞いているのは、その頃ジジの父親(明治28年生まれ)は戦闘機の燃料を作るため山に『松根を炊きに行っていた』、という話し。


 これは、戦争末期の頃の燃料不足を補うため国と軍が松根油を製造することを企図し、全国的に号令をかけた出来事であった。
 松根油とは松の根を乾留して得るテレピン油の一種らしいが、製法は松の根っこを釜に入れて熱すると、揮発成分だけが出てくるがそを冷やすと可燃物が混じった液体が得られる。それをもう一度乾留して純度を高めたのが松根油である。
 ジジの父親が携わった『松根を炊く』というのは軍の工場へ納入する準備として掘り起こした松の根を蒸す作業であったのであろう。
 この燃料が実際航空機燃料に使われたのかどうかであるが、インターネット検索によると、実際はタール・ゴム分などが抜けきれず、またオクタン価を高める技術も確立されていなかったので、テスト段階で終戦となったようである。


 その2: ジジの生家は田舎の百姓家であったので、本屋と長屋の人と牛の居住スペース以外に、前にトタン葺きの農作業小屋があった。遠縁の母子が街の戦火をのがれるため疎開してきたので、そこを人が住めるように改造して提供した。母子はその後昭和21、2年頃まで滞在したと思う、という話し。


 その3: 昭和20年3月に和歌山市の大空襲があったが(そのとき和歌山城も焼失した)、和歌山市内に住んでいたジジの従兄弟がふとんを頭からかぶり、下の弟1歳をおんぶし、夜中、粉河寺近くの身内のところまで約20キロメートルを線路伝いに逃げてきた。おんぶしたのは小5君の年齢くらいであった、という話し。


 たら婦人が語った話し。
 戦時中の食糧難のこと。たら婦人一家は吹田市に自宅があり、子供は男3人の女が1人。たら婦人の母親は育ち盛りの子供らの食料確保のため方々に買い出しに行った。自分の着物をお米や食料に替えたこともあった。食料不足のことばかり。
 (ジジは横から「かわいそうに、ジジ方は百姓であったので白飯食べていたわ」と言ってやった)