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あれこれ・あるがままに(第141回)    令和2年1月25日
                          
  
鐘の音(カーン、ゴーン)
(カーン・ゴーン)
 金婚の鐘が「キンコンカーン」と鳴ったのは令和元年10月のこと、その年末から令和二年の正月明けにかけて、テレビニュースでは「ゴーン、ゴーン」という音声の氾濫、新聞紙面では片かな字で「ゴーン、ゴーン」の活字が躍った。そして、年末の大晦日には「除夜の鐘」が「ごーん、ごーん」と百八つ(鳴ったはず)。

 ここへ来て、「ゴーン、ゴーン」の話題にもいささか食傷気味であったところ、和歌山の知事さんも同じような気持ちであったのか、年初記者会見の発言が一部不適切ではないかという趣旨で次のように取り上げられていた。
 【保釈中にレバノンに逃亡した日産自動車の元会長、カルロス・ゴーン被告について「元々悪人顔をしている。それを究極の英雄みたいにわーわー言っていた。前から私はこいつはおかしいと思っていたことが証明された」と話し、その後「あとは日本人はカルロス・ゴーンさんを忘れればいい。ただの犯罪人だ」とも述べた。】(紀伊民報2020/1/14)

 知事さんの発言はパブリックな立場であるという点で??がつくかもしれないが、一般老人のジジは不適切というより、「日本人は・・」という表現も含め、「なんと遠慮のない正直な気持ちの表現であることよ」と思った次第。

 ここのところ「ゴーン」は響きが悪い。除夜の鐘の「ごーん、ごーん」についてまで、近時「うるさい」という苦情が寄せられ、自粛というお寺もあるそうな。しかし、こちらの近所迷惑というクレームについては全く同感できない。
 確かに同じ音が聞こえるのでも、音源の近さ、音量、音質の好き嫌いなど様々であり、人にとって心地よいと感じる時とうるさいと感じる時があるものである。加えてその音を出す行事を肯定するか否かで受け止め方も違ってくる。所変わって中国の春節を祝う爆竹の音も、迷惑という次元で言えば大迷惑であろう。
 日本の仏教的行事である除夜の鐘の行事は、仏教では、人には百八つの煩悩(ぼんのう)があるという考えから、その煩悩を祓うためにつくのが除夜の鐘であり、そしてその回数は108回とされている。
 煩悩とは、人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心のはたらきのことを言いうが、どうしてその数が108なのか、諸説あるが「四苦八苦(4×9+8×9=108」という俗説がある。面白い!!。
 理屈はともかく、年の変わり目の大晦日の深夜、除夜の鐘の「ごーん」は耳と心に沁み入る伝統の音、同じ日本人として受け入れてもらいたい。(この「日本人」という表現は十分注意して使わなければならない。最近でも麻生大臣が「日本人は単一民族」と表現して非難されていた。)

(鐘の音)
 鐘が出す音には、「ごーん」「かーん」「カンカン」「チーン」「ちんちん」「チリン」「カランコロン」など、いろいろな音色で聞こえる。その音は耳から伝わり心に響き、あるいは宗教的感動を呼び、またあるいは危険や注意心を呼び起こす。

 ところで、鐘は構造や形状の違いから、大きく分けて「和鐘」と「洋鐘」に分類される。
 日本の鐘(和鐘)は撞木(しゅもく)で叩くか撞くことによって鳴らすものが一般的なのに対し、西洋の鐘(洋鐘)は内部にぶら下げた舌(ぜつ)という分銅で内面を叩いて音を出すものが一般的である。
 和鐘はお寺の鐘楼にある梵鐘(釣鐘)が典型的であるが、構造上口径が狭く音色が「ごーん」と重厚で、長い余韻を残すのが特徴である。ありがたや・ありがたやの南無大師遍照金剛!!。また半鐘は昔は火の見櫓、今はお寺の軒先などで見られるが、一回り小ぶりで音色は「カーン・カーン」と甲高い。火の見櫓の半鐘は火事や集会の合図に、お寺では勤行など法事開始の合図に使用される。

 ここで禅問答。「鐘が鳴るのか撞木(しゅもく)が鳴るか」、答えて曰く「鐘と撞木の相(あい)が鳴る」。お見事のご名答!!。

 他方、洋鐘(ベル)は構造上口径が広いため音色は明るく、和鐘に比べて余韻をあまり残さないのが特徴である。
  洋鐘では教会の鐘楼や時計塔の鐘が典型的であるが、教会の結婚式で明るく華やかに鳴り響く鐘(ベル)の音を聞いた方もおられよう。洋鐘(ベル)は鳴り方や置く場所によって名前がつけられている。鐘を並べることで複数の音が出せるようにしたものはカリヨンベル、1個または数個のベルを単純に鳴らすのはチャイムベル、ベル本体を大きく揺らせて鳴らすのはスイングベル等など。

(ゴーン)
 平かな「ごーん」の次は片かな「ゴーン」の問題であるが、日本から逃亡脱出後現在レバノンに滞在しているらしい。テレビニュースではレバノン市内の自宅で(日産の所有らしいが)、ノーネクタイ姿のカルロス・ゴーン氏がワイングラスを片手に婦人とリラックスした様子で日本の司法制度を非難していた。
 ゴーン氏がこのようにリラックスしているのは、自ら日本に入国しない限り強制的連行はないと考えているからであり、おそらくその考え通りであろう。日本の司法制度では、軽微な犯罪を除き被告人本人が裁判に出頭しなければ裁判を開けない仕組みである。たとえ逃亡した結果出頭できない場合であったとしても裁判はできない。結果、ゴーン氏は日本では懲役や罰金という刑罰が科せられることはない。
 しかし、民事事件は別である。日産としては相手が外国人であろうと居場所・住所が明らかな限り、巨額になるという損害賠償請求訴訟は可能であり、財産の差押え手続きも可能である。

 このような状況においては、ゴーン氏の役員報酬問題で証取法違反の共犯として逮捕起訴されたグレッグ・ケリー氏の立場はどうなるのか。どうにもならない!!。現在保釈中の身であるが、ゴーン氏の逃亡後も保釈の制限住居にとどまり、裁判の資料に目を通すため弁護人の法律事務所に通っているとのことである。ケリー氏は米国で弁護士であるという。
 ここでゴーン氏とケリー氏の立場の決定的な違いは妻の振る舞い。ゴーン氏の妻はワイングラス片手の夫の横で勝ち誇ったような態度をマスコミに晒しているが、ケリー氏の妻は制限住居で夫と同居、長期の裁判期間を想定し、長期の日本滞在を可能にするため日本語学習の学生ビザを取得したという。
 どちらの夫婦もそれぞれの形で愛のある仲良し夫婦と見た。

(締め)
 このように書き進めてきたが締めの落ちが見えてこない。そうしたところ、初めに「鐘」を話題にしていたための空耳か、終了チャイムのチーンが聞こえた気がする。中途半端な気はするが、本稿を中締めとしたい。