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あれこれ・あるがままに(第16回)    平成21年10月1日

  
彼      岸      花 
 
 今年も我が坪庭の一隅から彼岸花が花を咲かせた。10月ページ公開の赤花白花である。
 彼岸花は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の花で文字通り彼岸の頃に咲き、田んぼの畦などに群生して咲くのを見かける。別名が多く、天上に咲く赤い花を意味する「曼珠沙華(マンジュシャゲ)」というのは美しいが、地方によっては「ソウシキバナ」「ハカバナ」「ユウレイバナ」「シビトバナ」などとも呼ばれるようである。庭花として植えられているのを見かけないのは、この美しくない方の別名の故に敬遠されるのであろう。

 彼岸花の印象は、思い出との関係では「そういえば、何々があったときは彼岸花が咲いていた。」というように、どちらかというと「何々の思い出」が主役で「彼岸花が咲いていた」のは脇役であることが多い。一方、桜の場合の印象は「何々のときは桜満開の時であった。」というように「桜満開」が主役扱いであることが多いように思う。

 さて、ジジの彼岸花の思い出はというと、一つは、39年前の10月3日、たら婦人嫁入道中のことである。ところは、紀北地方の片田舎、田んぼの辺りに数十戸の農家が点在する集落。たら婦人の実家は奈良市内で遠方のため、前の日からジジ方近くの親戚宅に逗留、当日朝早くから美容師の出張を受け、白の打ち掛け花嫁衣装に分金島田の髪型、角隠しのかぶりものと当時の典型的な花嫁装束で準備完了、さあ出で立ちの時。
 ジジ宅まで約700メートルの道行きであるが、黒留袖に身を包んだ女性美容師に手を添えられながら、花嫁はしゃなりしゃなりと歩み出す。途中、近所のおばちゃんや子供たちが今や遅しと待ち構えての花嫁見物でわさわさ声が入り、無事花婿宅に到着。その道中や花婿宅庭先では見物人にお菓子が振る舞われる。
 たら婦人は、今でも「そういえば、あのとき田んぼの畦や道行きの道の端にまで彼岸花が満開であった。」と思い出を語る。

 もう一つは、ジジの父親と母親の葬式のことである。44年前と22年前のいずれも彼岸花が咲いている最中の9月と10月のことであったが、二人とも当時の葬儀の有りように従い近所のお手伝いで自宅において執り行われ、土葬の、文字通り野辺送りがなされた。葬儀は、今のように葬儀会社の慇懃な案内の語りはなく、集落の長老が打ち鳴らす鐘の合図で進行する。一番鐘(チョーン、チョチョ・・・・・・チョーン)で始まり、二番鐘で身内の焼香開始、三番鐘(チョーン、チョーン、チョーン、チョチョ・・・・・・チョーン)で葬列の出発。先頭は遺影、後に、松明、弁当、四本旗、位牌、棺と棺にかざす天蓋、続いて花輪の行列であるが、役割は故人との繋がりの濃さで決まり、ジジ父親の葬儀の時は葬列の先頭の遺影の役回りであった。葬列は彼岸花満開の田んぼの畦道を進み、これまた彼岸花の咲く埋め墓へと進む。ジジは当時大学2回生、詰め襟の学生服に角帽(大学に入って公式でかぶったのはこのときくらい)、美男子の美しい姿に葬儀に参列したおばちゃんたちは感涙の涙にむせんだものである。母親の葬儀の時も彼岸花が満開であった。
 そういうわけで、ジジは今でも「そういえば、あのときは彼岸花が満開であった。」と言う。

 とりとめもない話題で失礼。